(仮)

好きなことを好きなだけ語るためのブログ

食べてしまった林檎について振り返る

イルミィブログリレーのバトンを受け取ってしまったものの、そのブログに何を書くのが趣旨的に正しいのかよくわからないまま書き始めてしまいました。

うーん。何の話しますか。

最近見たもの。
昨日はセクバニコン見てました。
もともと、「好き!」と思ったものは1回見るだけで満足できなくて、飽きるまでリピートする癖で、なので、これも何度か見てます。2曲目の「OK」がすごく好き。「官尾」は本当に、心から気まぐれプリンスにカバーしてほしいですね…電球の演出がとても好きで、彼ならどんな風にあの電球を玩ぶだろう、と想像するだけで興奮で震えます。あと「Supernova」ずるくないですか、あの振り付けを推してる男性アイドルにやってほしくない人いる?ずるい…!
これに限らず、この御時世で、今まであまりちゃんと見たことがなかったアイドル、アーティストさんのライブ映像等がたくさん公開されてて、なかなか楽しいです。

で、改めて思ったんですけど、
MeseMoa.というコンテンツの「双方向性」って、当たり前のことじゃないんだよなぁ、と。いわゆる「接触イベント」で直接話ができるのも、ライブで客席の一人ひとりの顔や様子を把握してそれに反応されるのも、それにSNS

この沼にくるまでの私にとって、何かの「ファンである」というのは、「一方的」なことでした。
相手は当然自分の存在を知らない。何なら私がファンになった時には既に活動していない人たちだったりした。
だからこそ、自分の「好き」という気持ちは、どこまでも自由だった。

「双方向性」というのは、

怖いことだと思う。
覚えてもらえる、というのは、忘れられる可能性もある、ということ。認識される、ということは、悪い印象を持たれる可能性もある、ということで。
感想を伝えて喜んでくれる、ということは、上手く伝わらなければ喜んでもらえないかもしれない、ということだし、もし自分が肯定的ではない感想を抱いてしまった場合うっかりそれが伝わってしまうかもしれない、ということでもある。あるいは、自分がどんなに「ここが好き」「ここが良かった」と思っても、それは相手が意図した反応ではないかもしれない、場合によっては重荷や迷惑になるかもしれない、と思うと、そのまま伝えていいのか立ち止まって考えてしまうこともある。
「好き」という気持ちを「応援しよう」として行動にすれば、上手くいかなかった時には自分まで落ち込むことになる。

もしも、そんな「双方向性」がなかったら。相手を気にせずに一方的に好きでいられたら。
多分、失望する危険は減るだろうと思う。お互いに。そして、すごく自由だな。コミュニケーションが無いって、なんて安心で気楽で、自由なんだろう。

でも、そうじゃない道を自分はもう選んでしまったんだ、と思う。
伝えることが難しいから、伝わった時は嬉しいし幸せで。悔しいことがあるのは、叶った時の大きな感動を手に入れるためのリスク。コミュニケーションというのは、人間にとってとても強い魔力で、彼等はそれを武器にできるアイドルで。
そして、私はそれを選んでしまった。多分、むすめん。のライブを、気まぐれプリンスのダンスを、どうしてももっと見たい、そのためにチケット代を払いたい、と思って、一人で岡山まで行った4年前のGWにーーーー

選んでしまったものは仕方ない。ので。
これからも自分は、おかしいなこんな筈じゃなかったんだけどな、って笑いながら、イベント行ってグッズ買って手紙を書いて、エゴサを狙ったり避けたりしながらSNSや配信を追いかけて、笑ったり泣いたり試行錯誤したり悔しがったり幸せがったりしながら生きていくんだろうなと思う。
そうだね、後悔はしていない。

推しのいる人生を生きると決めた話でした。