(仮)

好きなことを好きなだけ語るためのブログ

5月4日(水・祝)、快晴、ツアーファイナル

その日のライブもいつもと同じだった。

そうだな、MeseMoa.の現場では私には比較的珍しく、真面目に物販に並んでくじを引いて、お取引もした、というのがあったくらいで、



ライブはめちゃくちゃ楽しくて、

まあオタクらしく(?)不満とか言おうと思えば、
私は歌って踊ってる推しがひたすら見たいのに1部の2階席の方がステージ近いし視界いいような気がするとか、
あーーーーやっぱりファイナルは「晴れの日」セトリで来ますよねそーーーですよねそんな気はしてましたわかるわかるけど雨君もう1回見たかったなぁぁあとか、
たった6公演しかないのに前半と後半でユニット曲変えてくるとかあほですかっていうか私のいない尼崎公演で智哉復活させてんじゃねぇよ1回しか見られないなんて許せん~!!!!

とか、
でもまあそれもまたオタクの一興というか、


めちゃくちゃ心配した2部の座席だったけど(1階後ろから3列目下手ブロック)、運良く人の頭の隙間からステージはわりとちゃんと見えていたし、

今日もやっぱり、
ラキボに入る瞬間のかっこいいスイッチ入る気まぐれプリンスが最高で、tap tapとかアワアワの前のダンスパートみたいな明るくハッピーな曲で楽しくてたまらないみたいにバキバキに踊る気まぐれプリンスが誰より天才で、このセトリでは貴重なMajestaの大人クールセクシーな気まぐれプリンスがありえないくらい大天才で、見る度にくっっっそかっこいい動きの装飾音符が増えていくMazeの気まぐれプリンスがやっぱり天才で、決して歌では天才じゃなかったはずの気まぐれプリンスが庭の樹であんなに、あんなにあんなに! 緻密で優しく繊細で美しい歌を歌えるところまで技術を積み上げて来たという事実を目の当たりにすることは、何度でも私の勇気だった。



それはいつものライブだった、私にとっては。
要するに、「今日も推しが天才」だった。



……懐かしいな、この言い回し。

最近、MeseMoa.のライブで気まぐれプリンスを見ていると、「やっぱり好きだなぁ」を通り越して「ああこれ好きだったなぁ」と過去形で脳内で感想を呟いていることがある。下手をすると、やっぱり好きだなぁ、こんなに好きだったのに、なんで、、みたいな、終わった恋の相手を眺めているような気持ちで(勝手に)ライブを見ていることもあった。
それでも、ハピハピバスデの「君と同じ時を生きている」で推しが感極まっている瞬間に、自分が水色を振れている、ということはとても嬉しかった。
上手く言えないけど、何かの大きな余韻を楽しむ気持ちで現場に行っているみたいな、
真っ直ぐな気持ちではないかもしれないけど、それはそれで幸せな時間だと思っていた。

余韻。
そうか。言葉にして思ったけど、ライブの最中にそれを「余韻」だと思っているってことは、既に私の中では何かが終わっているんだな。

話が脱線するけれど、特に最近のMeseMoa.の曲には、一緒にいたり好きだったけど今は離れてしまった人、に宛てたようなテーマの曲がいくつかあると思っていて、
そういうの全部、他界したオタクとか離れ気味のオタクとかに向けた歌に置き換えて聴ける脳をしているので、率直に言うと、わりと「美味しい」とか思っていたんですね。
書いてて思うけど我ながら救いようのない業の深さだな。
このツアーで披露されている新曲『カラメテ』も、聴き取れた歌詞の断片から、概ねその方向の歌として聴いていた。

そもそもこのツアー自体が、
タイトルもコンセプトもセトリも、(恐らく自分よりもっと)昔から彼らを知っている人、
でも今は少なくとも昔ほどの、その当人にとってのオタクとしての「青春」の時代の熱量ではもう追いかけていない人、に、
語りかけるみたいな、若しくはそっと寄り添おうとするみたいなツアーだったなと思う。意識してなのか、10周年、を表現した結果なのかは分からないけれど。
むすめん。時代を意識した(特にカバーの)選曲とかシェアハウスっていう設定とか、
最初見たとき、まるで「今のMeseMoa.のスキルで『むすめん。』がテーマのショーをやってる」みたいだと思った。

時間は流れるし彼等も私たちも大人になっていくので、
どんなに原点回帰だと言ってみても、もう戻ってこない時間とか、取り戻すことができないものは、きっとたくさんある。
「元通り」じゃなくても、あの頃は若かったねって思い出話をするみたいにでも、そっと一緒にいられればいい。
そういうツアーなんだと思っていた。



ハピハピバスデに話を戻すと(「大人になることは怖いけど」、)、
私は、まあ色々あってMeseMoa.に関してはド激単推しになり、だから、推しがあんなにメンバー大好き!を溢れさせている時にそれに同じテンションで感動することはできなくて。でも、それで幸せそうにしている推しを、遠くから見ていることは、嫌いではなかった。

そこまでは、10周年記念ツアーのファイナルだなぁという感慨、の範疇に納まることだった。そこまでは。




日本武道館、という発表があって、



「いつものライブ」だったものが、ぐるんと世界が変わってしまった。
その発表を背負って、この人たちは、「いつものライブ」をやったのか。って分かったら、自分の見てるものって何なんだろうと思いました。
アイドルが、共有してくれるもの、できないもの、共有している「つもりにさせてくれる」もの。



自分の泣き始めたタイミングは、その文字を見た瞬間でもなく、「やっと言えた」「言っちゃった」とボロ泣きしている推しを見た時でもなくて、
白服さんが「『時間はかかったけど、』たどり着いたぞーーーー!」みたいなことを言った時だったと思う。

そうだね、時間かかったね、と思った。
遅すぎるくらいだった。正直に言うと、あまり誰にも言ったことがないしここで言うのもどうかと思うけど、個人的には、もう無理だろうなと実は思っていた。
別に明確な理由とか根拠があった訳ではなくて、どちらかというと、「できなかったとしてもがっかりしないように心の準備をしておく」みたいな心境だったかもしれない。
アイドルに憧れて友達同士で趣味で踊り始めた、別にオーディションとかで選ばれた訳でもない、普通の男の子、だった人達がアイドルドリームを叶え続けるのがMeseMoa.の背負った物語だとしたら。もしも、どうしても叶わなかった夢にぶつかったとき、その物語は、どうなるんだろうか。

私は、別にいいよ、と思ったのだった。
私は好きなものを好きなだけ好きでいるだけだから。
夢が叶っても叶わなくても、歌って踊ってる気まぐれプリンスが見られればそれで良かった。
なんなら、「気まぐれプリンス」っていう名前じゃなくたって、歌って踊ってステージに立っているこの人を見ることができれば、自分はそれで良い、と思っていた。
そう思うことにしていた。





その間、彼らは何ひとつ諦めていなかったんだ、
って思いました。




きっと、そうやって繋いでた手を離した人間に、「どうだ!」って言いたいだろうな彼ら、って思います。
「夢は叶うって証明できたら」、そうだね。ごめんな。


とりあえず、泣いて帰って、なんか日程平日らしいって後で気づいたので、現地で水色振ってぷんたって大声でコールするための私と世界の算段は、おいおい考えるでいいですか?
戻ってこないものはあっても、それが私の青春の盛大な「余韻」でも、その日はそこにいたい。
水色の服を着ると強くなれると思っていた日々のために。

絡めた手は、2人が同時にほどかなきゃ離れない、のだという。
どちらかの手がジェラートのように溶けてしまうまでには、まだ時間があるらしい。



凍てつけ、愛した日々も全て、







日本武道館おめでとうございます。



2022.5.4 ロビ
(2022.5.5、5.27 改稿)