(仮)

好きなことを好きなだけ語るためのブログ

六月に降る雪と月と花と

この曲の話をいつか書こうと思っていた。

 

『あゝ雪月花』は、
パンダドラゴンの3rd.シングル表題曲であり、
担当カラーグリーンのメンバー「あづ」くんの、初センター曲である。


この曲がライブで初めて披露されたのは、確か今から2年半ほど前、2019年12月頃だったと思います。
当時のパンダドラゴンは、直近のシングルといえば『VIVA! チャイナ』、初めての東名阪ツアーを完売させ、2nd.ツアーと新宿BLAZE公演の開催が発表されて勢いはあったけど、まだまだ(株)DDの中では「弟枠」で、若さと明るさ、フレッシュさで売っている、というイメージだったような気がする。
でも多分、その『VIVA! チャイナ』のMVの完成度の高さ、カップリング曲『パンドラの箱』のコンセプトだったり、その前の春に発売された1st.アルバム『APRIL』の収録されている楽曲の多様さ・バランスの良さ(『NA・NA・NA』とか『Dragon Lance』とかが既に入ってることを思うと吃驚する。)、その他諸々から、「このチームの戦略担当は只者じゃない」「ていうか端的に言って推せる」ということは、話題になっていた、というかしていた、ような記憶があります。どこかで誰かと飲んでる時だったかTLでだったかは忘れましたが。

CDシングルを出すにあたって、「センターを持ち回りで毎回変える」。わかる。「毎回別の国をテーマにする」。まあ、わかる。
「3rd.は『日本』をテーマに」。うん。「あづくんをセンターで」。……天才かよ。

 

パンダドラゴンは、
生き急いでいるアイドルグループだなぁ、と思っていた。

いつか見たい、3年後にこういうのこのグループで見たいかもってこっちが夢見てるようなことを、明日突然やってしまうようなグループなのだ。


昔、どこかの特典会で、メンバーカラーの話をした時に、「緑を貰った時に、嬉しかったけど、まあ、緑のメンバーがいきなりセンターとかは普通ないなと思った」というようなことを、あづくんは言っていたことがあります。
確かに、あのタイミングでシングル表題曲のセンターにあづくんを持ってくる、というのは、まあまあ異例であるようにも思います。パンダドラゴンは、アイドルになるために入社するというオーディションを勝ち抜いたメンバーによるグループで、何せアイドルとしてのポテンシャルで言えば粒ぞろい。誰がいつどの順番でシングルのセンターを張ってもおかしくなかったし、そこを、あのタイミングで、「こっち」に振るか!と。

当時のMCや特典会で、この新曲を「大人っぽい」「えろいです」「…ごめん言うほどえろくないかもしれない」とかなんとか宣ってたの、覚えていますか?
うん、まあ、本人たちも、この曲がこのグループにとってどんな位置づけの楽曲になっていくのか、手探りだったのかもしれない、当初は。

そんな状態でこの曲をシングルとして、あづくんセンター曲としてリリースするのは、端的に言って賭けだし蛮勇で、天才で、
その美しい悪魔のような計算をした人が、それに夢中になる気持ちはとてもよくわかる、と思う。

 


このひとにとって、「アイドル」でいることは、「正解」だろうか。「幸せ」だろうか。

 

ファンをしていて、推していて、それはずっと不安だった。

 


表現者としての彼の才能は圧倒的である。群を抜いている。と少なくとも私は思う。
でも彼の「表現」は、しばしば、「あづ」というひと、そのキャラクターを表現することには主眼が置かれない。
例えばその「楽曲」、その世界観、物語、或いはシレオだったりギルバートだったり彼自身ではないその「他人」を表現するために、彼は平気で、そう、アイドルとしては異様なのではないかと思ってしまうほど無防備に「自分」を、「あづ」というキャラクターを投げ捨てて、その身体や声や持っている全てを表現の主題に対してまるごとごっそり捧げてしまう。見ていて恐ろしくなるほどだ。
それが表現の才能でなくて、「天才」でなくて、何だと言うのだろう。

でも。

本来、
アイドルというのは恐らく、「アイドルとしての自分」をテーマにした表現が何より求められる職業なのではないかと思う。自己プロデュース能力、って、要するにそういうことでしょう。それに長けているひとが、つまりアイドルとして「優秀」であり、「有能」なはずなのだ。それができる人こそが、アイドルとして高く評価されるべきだし、言ってしまえば売れるべきだ、と、私は思っている節がある。

いつだったか、確かコロナ禍に入ったまだ最初の頃に開催されたトークコール会で、「あづくんは、自分をかっこよく見せようとかじゃなくて、この曲を表現しよう!みたいなパフォーマンスをするよね」と言ったら、「…考えたことがないかもしれない。自分をかっこよく見せようって」という返事が返ってきたことがある。
自分をかっこよく見せようと考えたことがない。アイドルとして活動してきて、その時点でももう2年くらいになっているような人が?
そんなことって、あるだろうか。

だから、
このひとの表現者としての「正解」は、「アイドル」ではもしかしたら、ないのかもしれない。
推していてずっと、それは自分の中であった。このひとは、このひとの才能にとって、アイドルでいることは、本当にいちばん幸せなんだろうか?

 


『あゝ雪月花』を、あのタイミングでパンダドラゴンのシングルに持ってきて、彼をセンターに据えることは、

たぶん、

そのアイドルとしての人生を固めることだった。


この曲は、彼が居なければ成立しない曲です。そういうように作ってある。ように見えます。
冒頭歌い出し、落ちサビ、ラスサビの「色褪せない」のどんなドラマチックなアレンジをしても映えるようになっているソロ歌割も、ラストの一瞬までセンターでひとり、どんな演技アレンジを入れても形になる時間と空間の余白がとられていることも。あの圧倒的な楽曲や物語を表現する、そのために身を差し出せる才能を、全力で解放しても大丈夫なようにできている。
主人公である、ということは、周りと違ってもいい、ということなのだ。背景から浮いて見えることは寧ろ主人公としての「仕事」である。だから、存分に輝いてかまわない。だって、彼のための物語であり、楽曲なのだから。

それが与えられたとき、彼はどうしたか。
結果が今の、あのライブで披露されている『あゝ雪月花』な訳ですが、

 

それは、

期待に応えて覚醒してしまうこと、は、

その才能が「アイドル」として成立するということを証明してしまうことであり、
アイドルとしての人生を固めてしまうこと、だったんだな、と思う。

そして、私にとって、それを絶賛すること、喝采を送ること、
つまり「推す」ことは、
アイドルとしての彼の人生を固めることに、加担することだった。
悪魔と契約したのは、誰だったんでしょうか。

 


月日は流れて、

 

「全国ライブハウスへ行こうよ」静岡公演は、2days、4公演の開催でした。
これは私がパンダドラゴンというグループがアイドルとして優秀だと思う大きな理由なのだけど、このチームは、盛り上げるべきことを盛り上げる、お祭りにしてしまう、のがとても上手い。
公式発信で「凱旋公演」と銘打ち、ライブハウスシリーズ恒例のゲームコーナー「お土産争奪バトル」では普段スタッフさんが買い集めているという賞品のお土産をこの4公演は全てあづくんセレクトというプレミアム、極めつけは2日目2部で、普段その土地の好きな名物なんかを添える流れになるMC自己紹介で「あづくんの好きなところ」を全員紹介していくというスペシャル回で、
つけ加えると、しかも、現地の静岡鉄道には、ファン有志で出した凱旋広告が全駅、全車両に踊っていた。

つまり、これでもか!というほどの、「アイドル」になったこのひとの、「凱旋公演」だったのだ。
端的に言って祝祭だった。

『あゝ雪月花』はその全部の公演のセットリスト2曲目で、4回披露されたけれど、4回とも表情が違って、
時に消えてしまいそうに儚く、時に胸がかきむしられるほど切なく苦しく、時に優しく愛おしく、時に力強く美しく。
歌い出しサビ終わりのロングトーンも、ラスサビの「色褪せない」も、全部色が違って、全部すごく良かったね。
ああ、このひとの曲だ、と思った。
アイドル「あづ」が、そのアイドルとしては特異な表現の力を全解放しながら、同時に全力でアイドルでいられることが成立してしまう、私の大好きな、異形の楽曲。

「2曲目でもう泣いちゃったよ」と終演後の特典会で言ったら、
その人は幸せそうに、「親に全く同じことを言われた」と言って笑っていた。


凱旋公演、

「凱旋」が、「戦に勝って帰る」という意味なのだとしたら、
あのとき契約した悪魔との賭けに、私たちは、勝ったんだろうか。


あなたがアイドルをしていて幸せだと、そろそろ信じるぞ。信じたい。
構わないか?

 

 

彼と、

彼の才能と、

彼の才能を「アイドル」として使おうなんて世にも美しい蛮勇を成し遂げたひとたちの物語が、私は大好きです。

 

 

あづくんへ

お誕生日おめでとうございます。
今年もお祝いできて嬉しいです。
長生きするから、また会おうね。


2022.6.11 ロビ